安
【読み】やす,やすい,やすき,やすし,やすこ,あん,あなし,はだかす,しずか
【ローマ字】
【全国順位】
3,214位
【全国人数】
およそ3,900人
由来解説
②中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家乙麿流。
③東亜細亜(中国)姓、韓国・朝鮮姓。
などにみられる。
鎌足─不比等─〔南家祖〕武智麿─〔南家乙麿流〕乙麿─是公─雄友─弟河─高扶─清夏─維幾─〔南家為憲流〕為憲……正義……〔安氏の祖〕安鎌人之佐藤原正忠。
藤原鎌足10世の藤原維幾(従五位上武蔵守・常陸介)を祖とし、その15世正義は鎌倉の関東公方足利氏満に仕ヘ、武州橘樹郡飯野郷朝日平沢2村を給い、その九世の正忠は武田民部少輔信是(信虎五男・信玄の弟・松尾城主)に仕ヘ下野国足利郡安野安応安鷲3村に於いて永五十貫を給いその偏字を取リ氏を安と改めた。1590年秀吉が全国統一。徳川家康は秀吉の命令で、駿河国・遠江国・三河国・甲斐国・信濃国の5ヶ国を召し上げられ、北条氏の旧領、武蔵国・伊豆国・相模国・上野国・上総国・下総国・下野国の一部・常陸国の一部の関八州に移封された。武田(松尾)信是(~1571)の没後は信玄の命により、弟・河窪信実(かわくぼ のぶざね)の息子河窪信俊が家督を相続。天正10年(1582年)の武田家滅亡後は徳川家康に仕え、子孫は旗本(2700石)となっている。その子信貞の代に松尾姓から武田姓に復している。
武田信玄に大いに苦しめられた家康ではあるが、施政には軍事・政治共に武田家を手本にしたものが多い。天正10年(1582年)の武田氏滅亡・本能寺の変後の天正壬午の乱を経て武田遺領を確保すると、武田遺臣の多くを家臣団に組み込んでいる。慶長7年(1602年)自分の五男・信吉に「武田」の苗字を与え、武田信吉と名乗らせ、常陸国水戸25万石に旧穴山家臣を中心とする武田遺臣を付けられて武田氏を再興し水戸藩を治めさせている。
慶長8年(1603年)9月11日、信吉は生来病弱であったらしく、わずか21歳で死去し武田氏は再び断絶した。水戸藩は異母弟の頼将が入り、頼将が駿府に移封の後は、同じく異母弟の頼房が入部し、水戸徳川家の祖となる。信吉の家臣の多くは水戸家に仕える。
それに伴い藤原(安)正忠も常陸国(現茨城県ひたちなか市)に移る。藤原維幾は桓武平氏の平高望(従五位下上総介)の娘を妻としその子為憲は工藤氏の祖となる。安は藤原氏であるとともに桓武平氏の子孫でもある。
最終更新:2025/06/02 22:03:24 最終更新者:からいも
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